ステイ宅建士 blog

不動産の創造

小説「原爆と証」第一章

小説・・・主題 「原爆と証」 

    著者 ステイ宅建士 (爆心地1.6km圏内で被爆 その被爆2世)  

 

原子爆弾が投下された長崎と広島で21万人が、その年で死亡。

第一次世界大戦以来、兵器の進化によって軍隊は石油なしには成立しない状況.      その石油資源の確保は重大な問題となり、ドイツ、イタリア、日本など持たざる国家にとっては石油の備蓄と産出地の獲得が死活問題となった。そのためこれらの国々は海外に資源の確保と維持を求めたのである。

「日本の大陸侵略」に対し、1941年には米国から日本への石油輸出が禁じられ、その後イギリス、オランダからの石油も全面的に禁輸となってしまう。こうしてエネルギーの供給を絶たれたことが、同年12月に太平洋戦争の開戦時期を決める大きな要因となったのも事実である。このような世界情勢の要因が絡み合い、国力と国益を確保するために軍国主義思考を持つ一部の軍中枢、政治家、官僚の集団的思考によって正当化され、第ニ次世界大戦となり、大日本帝国の結末となった「証」である。

 

現在の長崎市内の様子を丘の上、稲佐山展望台から眺める長崎市の様子から投射。 長崎市の夜景は世界新三大夜景 日本三大夜景にも数えられている。

戦争の原子爆弾により長崎で犠牲となった、人たちの思いを引き継ぎ、復興を成し遂げた街並み。

背景・・・・長崎市への原子爆弾投下は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して原子爆弾を投下。平和公園に置かれている原爆落下中心碑の座標。浦上天主堂の上空付近、高度約500メートルの地点で、原子爆弾がさく裂した。原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。

 

 原爆投下前の浦上天主堂 

 

その被爆者家族9人「父親(浅一)母親(さく) 長男(正勝 当時16歳)、長女(英子 当時18歳) 次男(茂 当時13歳) 次女(恵美子 当時12歳) 三男(敏夫 当時5歳) 三女(睦子・・・当時9歳) 四男(正 当時2歳)及び三女(睦子)の夫となる七雄」が生き抜いた実話の「証」である。

 

原爆投下までの経緯、明治以来、「日本の大陸侵略」が日清・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太(からふと)を植民地とし、南満州(中国東北)を勢力化した。さらに産業革命後、いち早く近代化を達成したヨーロッパの列強諸国(イギリスやフランス)は植民地獲得に乗り出した第一次世界大戦では、ドイツ領南洋諸島と中国の山東(さんとう)半島を占領。また、ロシア革命後の1918年(大正7年)にはシベリアに出兵して、東シベリア国家を樹立しようとした。
「日本の大陸侵略」が、太平洋戦争の一因である日米対立にも発展し、日露戦争後、ワシントン体制の下 1931年9月18日中国への「公然とした侵略戦争」を始めたのが「満州事変」 。日本の関東軍によって満洲全土が占領され満州国を建国。約200万を超える日本人が満洲に居住。その日本人移民排斥問題などをめぐり日米関係は悪化。
1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻と同年9月17日のソビエト連邦によるポーランド侵攻が発端による。日本国は1940年(昭和15年9月)世界での戦争状況の中、攻撃に対する相互援助を約した ドイツ、イタリア、日本と軍事三国同盟条約を締結し、大日本帝国は第二次世界戦争へと突入。

 

日本の敗戦が決定的となった終戦末期の日本帝国海軍 特別攻撃回天隊 (人間魚雷・・・脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった) は山口県に訓練基地があった 

16歳の長男 正勝は予科練志願兵で入隊したが、回天隊基地に配属され、訓練期間中で出撃することなく、8月6日広島に原爆が投下され、その情報で長崎に数日以内に投下されることを察知し、長崎にいる家族に、その旨を知らせるために部隊を離れて、実家まで急いで帰省する。    

長男(正勝)が後日、知ることになったが、昭和45年8月15日終戦を迎え。2日後、正装した上官が回天の上に乗りピストルで自決した。部下を送り出した責任を取ったのだと思う。

 

家族は西坂国民学校近付近に平屋の木造戸建に床の広さも狭く、家族がやっとこそ寝れる広さであった。8月9日朝、高等女学校に行かない長女(英子)様子を見てた母(さく)は「女学校に行く日でしょ 行かないの遅刻するよ」、長女(英子)は「今日は行きたくない、なぜか行きたくないの」 そのときである空襲警報が鳴り響いた。すぐに坂の上の崖地に奥行が長い防空壕に避難・・・・・「当時避難した長崎の防空壕

長崎世界遺産2016

  ・・・・原爆投下直前 、長崎には朝から空襲警戒警報が出ており、一旦は避難した市民も多かったが、午前10時過ぎには解除されたため、大半の労働者・徴用工・女子挺身隊は、軍需工場の作業に戻ったとされている。・・・・・・・・

 

空襲警報が止んだので、睦子の友達3人(男の子2人と女の子1人)がきて「学校に遊びに行こう」と誘われ 次女(恵美子12歳)と三男(敏夫5歳)で、学校の友達3人と睦子は父ちゃんの下駄を履いて遊びに行った。

 

母(さく) 茂(次男)、英子(長女) 正(四男)は防空豪に避難したままでいた。その防空豪に避難しているところ 、帰省してきた長男である正勝が発見。母(さく)は驚き、永久の別れと送り出した長男(正勝)が目の前にいる。 「どげんしたとね」  正勝は「広島で新型爆弾が落ち 何万人と多くの人が一瞬に死んだ。その新型爆弾が長崎に今日、明日にでも落とされることを知らせるために部隊を離れ、急いで帰省してきたと」 そのときであった、大きな爆発音と爆風、キノコ雲が空高く舞い上がった。

【原爆の爆発の瞬間、落下中心地付近(浦上天主堂の上空付近 )では約3000℃か ら4000℃の異常なほど高温の熱線が放出された。】 

 

長男正勝が「父ちゃん(浅一)はどこにいる。」 母(さく)が 大村(現在の長崎県大村市・・・長崎市の隣町)に大工の仕事で5日前に行った」 「睦子たちはどこにいる」 「空襲警報が止んだので、睦子たちは学校に友達と遊びに行った。」 この爆弾では生きていないだろうと 母(さく)は防空壕の外で呆然と立ち尽くす。                 長男 正勝は「学校に行ってみるでよか」

 

睦子たちは西坂国民学校近付近にて被爆・・・・鶴の港の別名を持つ長崎港を見下ろす西坂の丘に建っている。長崎市御船蔵町 爆心地から約2.1km離れていた。その1.6キロ圏内で被爆 西坂国民学校は、原子爆弾の投下直後に吹き上がった爆風で木造校舎が全壊・全焼。

長女(英子)の高等女学校は原子爆弾の爆風と熱風により、爆心地から約1.3mの場所にあった純心高等女学校の校舎は崩壊。火災によって焼失した。残っていた生徒は死亡

           原爆により倒壊、全焼した為、諏訪神社の長坂で青空授業を行った西坂 ...

爆風で木造校舎が全壊・全焼した西坂国民学校

   木造であったことにより、跡形もなくなっている。学校の「証」としては正面に見えるコンクリート製の壁と門柱だけが残っているだけだった。

 

次女(恵美子12歳)と三男(5歳敏夫)と近所友達3人とかくれんぼ、睦子(三女9歳)は近所家屋玄関の石垣にしゃがんで隠れていた。右片目だけ少し見開いたときに空がピカーとひかり爆裂、新型爆弾の爆発音と爆風が収まったときには、友達3人は爆風で飛ばされ付近にいなかった。すぐそばの家は爆風で崩壊。弟の敏夫5歳は桜の木の下で身体震えながら伏せの姿勢でしがみついたままでいた。

恵美子(次女12歳)は、爆風で少し飛ばされ、爆風でとんできた物にあたり、右足に酷い傷で横倒れていた。睦子は無傷であった。身体が小さく、石垣を壁にしてしゃがんでいたことが、よかった。

 

長男(正勝)が「睦子 どこだ 睦子 どこだ」 「兄ちゃん」 「お~睦子」 生きていたか

恵美子も正も 生きてたか 良かった。 恵美子ねちゃんが足にけがして、歩けない。正勝の下着を破って、恵美子の足に、傷口にあて、しばりつけた。

正勝は恵美子を背中におんぶして、睦子は敏夫(三男5歳)の手を握り、母がいる防空豪へ向かった。

その途中、爆発による高温の熱線で火傷が酷く性別不明の人があちこちに倒れていた。その時に付近から聞こえたのが、「倒れている人に水をやるな、すぐに死んでしまう」と。・・。・・・途中に倒れていたおばちゃんから、「むちゃん」 水「ちょうだい」 聞こえた睦子は、すぐに、一緒にかくれんぼして遊んでいた友達のお母さんとわかった。 おばちゃん 「ごめんね 水 持っていないの」、そのあとすぐにおばちゃんは死んでしまった。その様子を見た長男正勝は

           「睦子 これが戦争だ」・・・・・・・・・・・次回に続く